被爆、貧困、差別を乗り越え3000本安打ー張本勲さんが残した平和のメッセージ
プロ野球歴代1位の通算3085安打を放ち、首位打者7回など数多くのタイトルを獲得した張本勲さんが9日、亡くなりました。86歳でした。
被爆者(5歳の時に広島で被爆)でもあった張本さんは60歳を過ぎた頃から、重い口を開いて自らの被爆体験を語り始めました。私は2008年、張本さんに取材して記事を書きました。その記事をここに再録し、張本さんから受け取った平和のメッセージを皆さんと共有し、一緒に張本さんの遺志を継いでいけたらと思います。

張本さんの本名は、張勲(チャン・フン)。在日韓国人2世です。
母親の朴順分(パク・スンブン)さんは1940年、3人の子どもを連れて当時日本統治下にあった朝鮮半島の慶尚南道から日本に渡りました。先に単身で日本に渡り、広島で暮らしていた父親の張相禎(チャン・サンジョン)さんが呼び寄せたのです。
この数ヵ月後、張本さんが誕生します。
忘れられない地獄絵図
そして、1945年8月6日――。
5歳だった張本さんは、段原新町(爆心地から約2キロ)の自宅前で被爆します。爆風で家はぺしゃんこに潰れましたが、ちょうど比治山の陰になっていたため熱線を直接浴びず、命を取り留めました。
しかし、勤労奉仕で比治山にいた長姉の点子さん(当時11歳)は、全身に大やけどを負いました。「熱いよー」「痛いよー」と苦しみながら、数日後に息を引き取ります。
張本さんは当時の光景が今でも目に焼き付いていると言います。
「自分の愛する娘が死んでいくのを見ながら、お袋が一晩中、自分の胸を叩いて泣きながら看病していたのは、はっきりと覚えています。地獄でした……」
「人肉が焼ける異様な匂い、うめき声、叫び声、熱いから走ってドブに突っ込み、そのまま死んでしまう人たち……。あれだけは忘れたくても忘れられません」
ホルモン屋で子ども3人を育て上げた母
日本の敗戦とともに、朝鮮半島は日本の植民地支配から解放されました。
張本さん一家(母、長男、次女、張本さんの4人。父は原爆投下前に病死)は朝鮮半島に帰ろうとしますが、引き揚げ船が沈没して乗船者が全滅したという話を耳にし、しばらく日本に留まることにします。
戦後の暮らしは「とにかく貧しかった」と張本さん。住まいは、トタン屋根の長屋の6畳一間。母の順分さんは闇市でホルモンやドブロクを仕入れて屋台を営み、女手一つで3人の子どもを育て上げました。
そんな生活の中で、中学生になって野球部に入った勲少年は、後の人生を決める衝撃的な光景を目にします。
試合のため広島に来ていた読売巨人軍の宿舎をのぞきに行った時のことです。
食事中の選手たちのお椀には銀シャリが山盛りになり、それまで見たこともないような分厚いステーキを食べていました。選手同士がお金をやりとりする姿も見えました。まだ1万円札がなかった時代。それも、少年がそれまで見たことのないような札束でした。
「プロ野球選手というのは、こんな美味しい物を腹いっぱい食べれて、あんなに金持ちになれるのか。よおーし、俺もプロ野球選手になって、お袋に広い家をプレゼントするぞ、と決心しました」
それ以来、中学校の野球部の練習が終わった後も、家の裏にある猿猴川の土手で気が済むまでバットを振り続けたといいます。
兄の救いの手
やがて張本さんは、エースで4番打者として広島県大会で優勝します。
高校は県内の強豪校への進学を希望しましたが、「横暴性のある生徒はいらない」と拒否されてしまいます。中学校時代、他の部とのグラウンドの取り合いでたびたび“暴れた”ことが裏目に出たのです。
「夢」への道が閉ざされ、町に出ては喧嘩に明け暮れる日々が続きました。
それでも、野球を諦めることはできませんでした。日が経つほど野球への思いは強くなるばかり。そして、ついに行動に出ます。タクシー運転手として一家の大黒柱になっていた兄の世烈(セヨル)さんに「大阪の高校に行かせてくれ」と訴えます。
兄の答えは厳しいものでした。
「無茶なこと言うなよ。家の経済状態を考えれば、できっこないだろう」
しかし、張本さんは引き下がりませんでした。来る日も来る日も頼み込みました。その熱意が、ついに兄を動かします。
ある日、世烈さんは張本さんにこう言いました。
「いいか、今の俺の給料は2万3000円しかない。その中からお前に(生活費として)1万円を送ってやる。学費は、夏と冬のボーナスを送ってやるから、それでまかなえ」

左から勲さん、長男の世烈さん、次女の貞子さん、母親の順分さん(張本勲さん提供)
契約金で念願の家を母に贈る
兄の後押しを得て、大阪の浪商高校に入学した張本さん。2年時の秋の近畿大会では4番打者として大活躍し、プロ野球のスカウトの間で「東の王(貞治)、西の張本」と呼ばれるようになりました。
そして高校卒業後、東京の東映フライヤーズに入団。契約金200万円を広島の家に持ち帰ると、母・順分さんは驚いて、こう言ったといいます。
「こんな大金、お前、何か悪いことでもしたんじゃないだろうね」
張本さんはそのお金で、家族が暮らしてきたトタン屋根の長屋の近くに土地を買い、念願だった家を建てました。母親のうれしそうな顔を見ることが、何よりの幸せでした。
その後の活躍は、ここで説明するまでもありません。
23年間の現役生活で首位打者を7回獲得。1980年5月28日には、プロ野球史上初となる通算3000本安打を達成しました。
その日の川崎球場のスタンドには、チョゴリ(韓国・朝鮮の民族衣装)を着た母・順分さんの姿がありました。家族とともにつかんだ大記録でした。
長年語らなかった被爆体験
現役時代、野球に没頭している間だけは、自分が被爆者であることを忘れることができたといいます。
しかし、年に1度の健康診断が来るたびに、「ひょっとしたら何か原爆症が出るんじゃないか」という不安が頭をよぎりました。
「周りで実際に、そういう例をいっぱい見てきましたから。昨日まで元気だったのに、突然髪の毛が抜けて、おかしいと言っていたら、あっという間に死んでしまった同級生もいました。次は自分じゃないか、という不安を絶えず抱いているのが被爆者なのです。我々被爆した人間は、生きている限り戦争は終わらないんです」
しかし長い間、こうした思いを誰かに語ることはありませんでした。妻や子どもたちにさえ、話しませんでした。
「やっぱり言いにくいわな。被爆者という変な目で見られたくないというのもあったし、家族には(話して)嫌な思いをされても嫌ですから。特に聞かれることもなかったし、自分から言う必要もないと思って」
若者へのメッセージ
そんな張本さんの考えを変える出来事がありました。
4年ほど前、テレビで20歳くらいの若者が「戦争なんか知らない」「原爆ってどこに落ちたの?」と話しているのを耳にしたのです。
「それを聞いて、自分が間違っていたことに気付いたんです。被爆体験を語れるのは、我々が最後の世代だ。だから伝えなければ、と思ったんです」
そして、戦争を知らない世代にこう呼びかけました。
「この国がこれだけ裕福になったのは、先人達の人柱のような犠牲があったからですよ。それは絶対に忘れちゃいけない。だから若い人たちには、戦争体験がなくても、体験した人から聞いた話をそのまま子や孫に語り継いでいって欲しい」
「そうやって、こういう悲劇を二度と繰り返してはいけないんだ、やっぱり戦争をやってはいけないんだと思う人が一人でも増えてくれれば、世界平和は必ず訪れますよ」
(※本稿は、2008年8月に日本平和委員会発行の『平和新聞』に執筆した記事に一部修正を加えたものです)
心からご冥福をお祈りいたします。合掌。

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